北欧暮らし - 序章

孤立したように感じられるこの国で、底をついた日本食の棚を見てため息ついています、それでもこの国、好きになって来ました

このブログは新サイトでゆったりと継続させていただいております。 https://hokuomachikado.blogspot.com/

七か月ぶりにストックホルムの境界線を越えてみた - 「北欧暮らしのその後」のリンク集

  ついにストックホルムの外の世界へ飛び出すことになった。

 

 パンデミックが勃発してからは、予定していたベルギー旅行も日本帰国も反故にされ、結局、二月ぐらいからストックホルム県を一度も出ていない。

 

 ストックホルム県どころかストックホルム市もほとんど出ていない。

 遠方には生存している親戚も居ない、友人もほとんどストックホルム県在住であるためストックホルムを出る理由も必要もなかった。

 

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最後の写真以外は車窓からの写真なので質が悪く申し訳ございません

  

 初めてストックホルムの外の空気を吸うことになった週末の旅行は、楽しい遠足というようなものではなかった。

 

 これまでずっと私の傍に居た末娘を地方の大学まで送るためのものであった。

 

 これもパンデミックが始まる以前には想像も予定もしていなかったことだ。

 

  土壇場になって、大学のある地方都市にホテルを一泊予約してくれだの、自転車を持って行きたいからレンタカーを借りてくれだのと計画性のないことを頼み込んでくる。

 

 人々が公共機関を使う事を厭うこの時期、レンタカーは、よほど早く予約しないと出払ってしまうと噂に聞いていた。

 ホテル状況も最近はどうなっているのかあまり把握していない。

 

 

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  希望していた学部に入れたことを素直に喜んであげるべきであることは建前でも、本音は、他に選択肢はないであろうか、などと、ぎりぎりまで未練がましく試行錯誤していた。

 土壇場で気が変わることはないであろうか?

 遠隔学習には代替できないのであろうか?

 実際に、月に一回だけ物理的出席をすれば単位が取れるなどというマネージャー養成プログラムなどもある。

  

 結局、

 

 レンタカーは手配できた、噂に聞いていたほどは出払ってはいなかった。

 ホテルも、間際の予約であったため安くはなかったが、苦もなく予約は出来た。

 

 町の中心にあったそのホテルは所狭し、レセプションは朝食をいただくカフェの一角にあった。ほぼ三密であった。

 

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 町の地図を一枚拝借していた時に、透明プラスチックの仕切りの後ろに立っていた女性が親切に尋ねて下さった。

 

 「どこか観たいところはありますか?」

 

 私は、ある歴史的事件の起きた場所が近いかどうかを訊ねた。

 

 「え?どこかしら、うーん」

 

 彼女の躊躇はカフェ全体の注目を集めた。

 

 女性は、質問したことを後悔したような面持ちを見せていた。

 そして娘は私の発言を恥じている様子で下を向いていた。

 私としては、大勢の前で、親切なレセプションの彼女に恥を書かせるつもりなど皆目なかった。

 スウェーデン語を勉強している時に習った歴史的事件であるため、スウェーデン人なら当然知っていることであると思い込み、即座にそう答えただけであったのだ。

 

 私達移民は時として、スウェーデン人でさえ読まない推薦図書などを、課題として読んで感想を書かされることなどがある。

 

 しかし、そこで助け舟が出現した。

 

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 末娘の1,5メートル後ろでチェックインの順番を待っていた育ちの良さそうな金髪ソバージュの少女が、彼女に話しかけて来たのだ。

 

 「こんにちは、貴方もこの町で大学を始めるの?」

 「そうだけど、貴方も?」(小声)

 「そうなの!私もそう。心理学の専攻よ、貴方は?」

 「エンジニア」(小声)

  

 母親を反面教師としている末娘はとても無口である。

 しかし、同年齢の少女に話し掛けられて満更、悪い気分では無さそうであった。

 

 そうだ、これなのだ。

 

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 これがおそらく学生生活というものなのだ。

 

 同年齢の友人と多く知り合い、お互いに切磋琢磨したり、馬鹿騒ぎをしたり、恋をしたりしながら一緒に成長してゆく。

 

 そして、そうやって一緒に過ごした友人たちとの友情は長続きすることもある。

 

 私がむかし、親の脛をかじって事後承諾で米国に留学をさせてもらった時のことを思い出した。

 新入生オリエンテーリングに参加した時のことだ。

 

 「貴方日本人?中国人?」

 と話しかけて来た瞳の印象的な学生がいた。

  

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 性格も正反対だった私達は結局、彼女が帰国するまでの一年間、多くの時間を一緒に過ごした。

 異国で一緒に笑って一緒に泣いた。

 その後も彼女は、SNSが苦手な私にメールでまめに連絡をくれている。

 彼女は私を訪ねて、中国北京にもスウェーデンにも来た。最近では熱海に一緒に一泊旅行をした。

 たったの一年間、濃厚に温めた学生時代の友情は実に二十年以上も存続している。

 

  

 末娘も、もう親元から巣立つ時期が来たということであろう。

 いずれは、とは漠然と覚悟していたことが、予想よりも早く現実になったということだけだ。

 

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 娘のホテルの部屋を出る前に二人でセルフィーを撮り、私はホテルを後にした。

 

 

 そのあと、大学のキャンパスを廻ってみた。

 芝生がよく手入れされたモダンな大学であった。あちらこちらでチアリーダー達が振付の練習をしていた。米国の高校を彷彿させた。

 

 美しい町であった。

 しかし閑散としていて淋しい印象を受けた。

 学生がまだ戻って来ていないからかもしれない。

 しかし、娘がこれから五年間、あるいはそれ以上過ごす町を自分の目で見ておいて良かった。

 バルト海は見えないがせせらぎの音が聞こえるところはあった。

 

 

 暗くなる前に帰途に就いた。

 

 帰る前に忘れ物が無いかを何度も確認したが、大きな忘れ物をしたという感覚はどうしても、しばらく拭えなかった。

 

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  喧騒の町、ストックホルムに戻り、レンタカーを返却してからマンションに戻りドアを開けた。

 

 当然のことではあったが中は暗く、音楽も掛かっていなかった。

 脱いだそのままの原型を残すショートパンツが床に落ちていた。

 

 大量の水分を喪失したため咽喉が渇いていた。

 麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けたら、ニラとニンニクの強烈な匂いが中から漂ってきた。

 

 末娘と一緒に作った手作り餃子が三個だけ冷蔵後の中に残っていた。彼女は餃子を包むのが私よりずっと上手い。

 

 これからは自分一人で餃子を作らなければいけない。

 

 

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 はてな読者になって下さったかた、ブログ村から読者になって下さったかた、それ以外のルートから見つけて下さったかた、毎記事を読んで下さっている知人の方々。

 ご多忙の中、本当に有難うございました、また激励、共感していただきありがとうございます。

 

 当初は友人に依頼を受けたカフェ・レストラン、飛行機情報などを二三書いて終わりにしようと思っておりました。

 全く想像もしていなかったことだったのですが、はてなさんというところは他のブロガーさん達と繋がることが可能なところでありました。

 SNSが苦手な私でも、その繋がりが非常に楽しかったことと、ブログ村に登録してしまい、春、夏季には二分野で一位になってしまったので止めるに止められず結局、数か月間も書き続けてしまいました。

 ブログを書くことは大変楽しかったのですが、性格的に雑居ブログのようなタイプのブログを続けていることが落ち着かなくなってきてしまいました。

 サバイバルガイドかジャーナリズムか小説か良くわからない、というご指摘を受けたこともあります。

 そのためジャンルを分けてブログを再構築しようかと準備をしていたところに他のプロジェクトが入って来てしまいました。こちらには非常に時間とエネルギーが取られております。

 残念ですが皆様のところを訪問させて頂くことが遅れてしまうことも多々あるかもしれません。

 

 進捗状況に関してはこちらの関連記事等で案内させて頂きたいと思いますので、時折のぞいていただければ嬉しいです。

 

 日本はまだ暑いのでしょうね。

 こちらは秋に突入致しましたので今日はジャケットを取り出しました。

 どうぞ皆さまご自愛なさって下さい。

 

 

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友人が一夜にして大富豪になってから

 ストックホルムが脆弱な太陽の日差しに包まれたある冬の昼さがり、ストックホルム郊外の森にある小さな木造の教会で葬儀が行われた。

 

 故人はスティーブ・ジョブズ氏と同齢まで、誠実な夫として、子供達の良き父として、信頼される上司として愛され、静かに逝った。

 

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 教会は葬儀に参列した人たちで混雑していた。

 教会の最前列には、このような状況においても非常に美しい未亡人と、子供達が涙を堪えながら静座していた。

 この頃は、パンデミックが音もなくスウェーデンにもじわじわと忍び寄って来ていた時期なのであろうが、事態は規制が出るほど緊迫した状態でもなかった。

 

 葬儀が終わって最前列の席から教会の外に出ようとした時、後方列の席から腕を強く掴まれた。

 予期していなかったことなので驚いて掴んだ腕の主を振り返った。

 

 

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 その手の主は、古くからの友人トムであった。

 「一体どうしたの?」

 

 泣き腫らしたであろう彼の涙袋は赤みを帯びており、顔には血の気がなかった。髪はかなり薄くなっており、以前からお世辞にも滑らかとは言えなかった肌はさらに荒れていた。

 彼は切羽詰まった様子でこう言った。

 「いつか、僕の話を聞いてくれないか?」

 

 トム(仮名)は15年前ほどにIT企業を設立したのだが、その会社が大手のIT企業に買収され、文字通り、一夜にして大富豪になった友人であった。

 正確には、以前私が一緒に暮らしていた男性の親友であった。

 彼の妻、リサ(仮名)の姿は見えなかった。

 

 「リサは?」

 トムは返答する代わりに首を振った。

 私は聞き返す代わりに、彼女は病気なのであろうと勝手に解釈した。

 彼女が「病気」がちになったのは、彼らが大富豪になってから間もなくのことであると記憶している。

 

 

 大富豪になって間もなく彼らは、親戚一同と私達友人を保養地のホテルに招待して感謝の意を示した。実に百人以上の招待客であった。

 

 そして二回目の大イベントは、トムがリサの40歳を祝った時であった。

 その際にも、百人以上の招待客、仔馬のポニーとそれを引く人、バーテンダーを雇い入れ、大型トランポリンまで借り入れ、大掛かりな誕生会を催した。

 ブルーネットでショートヘアの愛くるしい女性リサはなんと幸せな女性だろうと感じた。

 

 「今日の主役登場です!」

 と、トムが発表した。

 そこでリサが普段着風のワンピースで登場した。

 舞台にはブルーネットでショートヘアの愛くるしい女性が立っていた、はずであった。

 

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 「あら?」、何か違和感が感じられた。

 

 彼女は相変わらず愛らしかった。

 しかしその口元のまわりは細かい皺で刻まれていた。

 そしてワンピースの上からは彼女の肋骨が浮き彫りにされていた。

 

 私は、彼らよりは年下であり、40歳台には達していなかったが、40歳という年齢がそれほど高齢とは感じられなかったので、その年齢に至ると口元が皺だらけになる、という現象が非常に不可解に感じられた。

 

 

 その後しばらくして、再びトムに遭った。

 

 リサが最近、滅多に家に居ないため、子供二人の家族生活が尋常に回らないという。

 非常に裕福な家庭である。

 必要があれば家事手伝いをしてくれる人を雇用する経済的余裕もある。

 しかし、トムの意図していたところは、夫と子供達に愛情を注ぐ母としてのリサの存在と役割のことであると理解した。

 リサは、一か月間のうち二週間は、地方都市で開催される自己啓発セミナーに出掛けており、そこで合宿をしていたそうだ。

 トムの表情は暗かった。

 

 トムもリサも二十歳前後の時に、場所と状況は異なるが、不慮の事故で、非常に大切な人達を亡くしている。そのためかどうかはわからないが、二人からは底抜けに明るい、という印象は受けられなかった。

 失われた命はお金には引き換えられない。

 しかし、彼らが大富豪になった時、その喜びで、せめて僅かでも悲しみが軽減されることがあれば良い、と正直なところ望んでいた。

 

 

 リサは長く勤めていた金融の会社を去り、かわりに大学で化学のプログラムを履修し始めた。

 理由はわからないが、スウェーデンは40歳を過ぎてから大学に入ると言う事はさほど珍しい事ではないため特に気にも留めていなかった。

 一度、彼女の大学の近くで偶然、出遭った。

 彼女は微生物のプログラムの履修テンポを落とすと言う。

 「何故?」と訊ねると、彼女は眉をしかめて神経質そうにこう答えた。

 「私の複雑な状況では通常のテンポで履修していくことは難しいから」

 

 私の複雑な状況?

 

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 私はその一言が疑問に思えて仕方がなかった。

 

 彼女は、私の知っている限りは健康で、優しくて真面目な夫の庇護を一途に受けている。リサのご両親も裸で走り回っているほど健康で活発である。

 二人の可愛い子供も衆知の限りでは素直に育っている。

 子供の送迎が大変というのであれば送迎をしてくれる人を雇用する経済的余裕もある。働く必要もない。

 

 

 「私の複雑な状況」の解答を得ることもなくあれから数年間が経ってしまった。

 現在はなおさら訊ねることが出来ない。

 

 「そんなに全てを持っている貴方に一体なんの不満があるというの?」

  と問いただしたくなってしまうのが人間かもしれないが、傍から見て幸せに思えることと実際に幸せである、ということが比例しない場合は往々にしてある。

 

   

 私はトムとリサが若くてまだ貧乏だったころを思い出した。

 彼らはボロボロの汗臭い服を着て、履きくたびれたスニーカーを引きずりながら大きく小汚いバックパックを担ぎ、横浜のアパートに住んでいた私を、日本に訪ねに来た。

 貧乏くさかったが二人の仲は睦まじかった。

 リサはベランダに出て煙草を吸っていた。

 「リサには煙草は出来れば止めて欲しいな」、とトムは心中をそっと吐露した。

 しかし、自己啓発セミナーに関しては「止めて欲しい」、とは言えない事情があったのであろう。

 

 さて、その自己啓発セミナーというは非常に高額なものらしい。

 もし、彼らが裕福になっていなかったら、セミナーに参加する経済的余裕がなかったのであれば、状況はどうなっていたのであろうか。

 そのようなセミナーに参加する代わりに、トムと、あるいは家族で温かく手を取り合って、リサの心の拠り所になることが出来たのであろうか。

 

  

 「僕の話を聞いてくれないか」と教会で腕を掴まれてからしばらくトムからは連絡が無かった。

 話というのはおそらくリサのことであると思う。

 

 

 そして、共通の友人である男性ではなく、私と話をしたいというのは、女の私の方がリサの心情がわかると考えたのかもしれない。

 深い知り合いでないほうが話を打ち明けやすい、という心情も何となくわかる。

 機内で隣に座り合わせた赤の他人に、知人には打ち明けたこともない話をしてしまうことがある、そのような心情であろうか。

 リサの心情なら実は私の方が知りたいほどであるが。

 葬儀のあとトムから連絡がなかったのは、おそらくその直後にパンデミック予防のための規制が出たためであろう。

 

 在宅勤務が奨励されていた期間、トムとリサはおそらく子供達と一緒に家族で団欒する時間が増えたのではないかと思った。

 家族で過ごす時間が増えたことにより、トムが相談しようとしていたことがおのずと解決していれば良い、と期待をしていた。 

 

 しかし、

 「葬儀の時以来だけど、時間あるかな」

 ついにトムから連絡があった。

 

 やはり、問題はおそらくまだ解決していないのであろう。私は重い腰をあげてトムの話を聞きに行くことにした。

 私には本当に話を「聞くこと」しか出来ないが。

 

 世の中にはお金では解決出来ないことが多くある。

 

 

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bearphoto.birkehammar.se

 

写真提供、Björn Birkehammar

美しいスウェーデンの風景を撮っている写真家に写真を譲っていただきました。

 

スウェーデン 昨日はCovid19による確認死者数ゼロ  明日から出勤

 「本日はCovid19 による確認死者数はゼロでした」

 という新聞の記事に釘付けになった。

 

 確認死者数を毎日追っている人もいたが、私はあまり追っては来なかった。

 6月24日をピークとして右肩下がりになっていたことは知っていたが、その程度であった。

 死者数を追っても追わなくともなすべきことには変わりはない。

 ルールを遵守することである。

 

 一日の確認死者数がゼロになったといってもパンデミックが終息したわけでも、歓喜出来るわけでもない。

 すでに夥しい数の方々が亡くなっている、さらに最近、夏日が続く事も加担して、若者同士の物理的距離が縮まってきたためその結果が懸念されている。

 各国の足並みも揃っていない。

 

 しかし、スウェーデンにとっては確認死者数ゼロは一種の節目とは考えられるのかもしれない。

   

 予測通り、最初に職場復帰を促されたのは私であった。公共機関を使わずに通勤することが可能であり、片頭痛以外の持病も発見されていないからだ。

  

 ということで月曜日、すなわち明日からオフィスにて勤務を再開するすることになる。在宅勤務にもかなり慣れ親しんできた頃なので、実感が湧かない。

  

 

 在宅勤務最後の週末、ブログにて何を紹介させて頂こうかと考えてみた。

 

 そうだ、アンデシュ・テグネル氏の勤務するスウェーデン公衆衛生局を探せるであろうか?何となく前から訪ねてみたかったところだ。

 

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 アンデシュ・テグネル氏はパンデミックにおいて集団免疫獲得の試みを提唱し、一躍、国際的に有名になったスウェーデン公衆衛生局のリーダーである。

 考えてみれば、ここに住んでいる多くの人たちは彼の一挙一動に喜怒哀楽していたような気がする。

 

 スウェーデン公衆衛生局はカロリンスカ医科大学(研究所)のキャンパス内にあると資料には説明されている。

 そして(私にとっては)このキャンパス内は迷路なのである。

  

 転職するまでの期間、このキャンパスは頻繁に訪れていた。

 講義を受けるためと、医師および研究者達に医学統計データを届けるためである。

 そしてたいていの場合は、彼らの研究室を探し出すまでに三人ぐらいの人に道を尋ねないと辿りつけなかった。

 それほど(重度の方向音痴の私にとって)中は迷路のようである。GPSを使っても同様である。

 

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 週末であるのであまり人はいないとは思っていたが、予想を上まわり、五人程しか見掛けなかった。

 数年前に、ストックホルム大学の広大な敷地内で真昼に女性が襲われたことがあった。そのことを脳裏から払い去ることが難しかったほど、閑散としていた。

 さらに、現在は夏休みでもある。

 学生たちが戻るのはあと二週間ほどであろうか。あるいはここでも遠隔講義が行われているのか。しかし、実験は自宅で行うことは難しい。

 

 カロリンスカ医科大学病院(県立)、カロリンスカ医科大学(国立)の最近の変化は理解の範疇を超えた急速さで、こじんまりしたスウェーデン様式のベージュの建物のすぐ隣に、近代的なガラス張りの巨大なビルが建っているという様相になっている。

 この写真の右側にはベージュの建物が肩身狭く存在していたのであるが、この写真上では見えない。

 

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 また、道路のうえまで突き出していることで話題になった建物もある。

 

 2013年に完成したAura Medicaである。

 世界中から研究者たちが会議およびセミナーのためにこの建物に集まる。実家付近の歯医者さんも日本からここのセミナーに参加されていた。

  

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 さて、スウェーデン公衆衛生局を探してみよう。

 

 緑の美しいキャンパス。無人のキャンパス。

 寝そべられるところはどこに行っても人だらけであった昨日、人が居ないということはとても奇妙に感じられた。

 

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 右手の赤い建物がランチレストランであり、正面のドアからも入れる。

 左手には医学図書館がある。現在は閉まっているようだ。正面に進むと医学書店があったはずだ。

 

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 ところで撮影許可であるが、数年前にここで海外ロケの時に打診した時には、良心的な目的に使用する画像なら許可、ということであった。

 この画像は極めて良心的なものである(と思う)。

 しかし、呼び止められることもなかった。人影一つなかったのであるから。

 

 入り口付近で力強く咲き誇った花々を、今は、飛び交う蜂以外に見るものもいない。

  

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 その後は地図を見ながら、重量2キロの三脚を担ぎながら三回ほどグルグルと回っってみた。

 

 「ハイリスク、厳重注意」の警告サインがあるラボとラボの間も三回通ったが、あまり長時間そこにたたずんで居たくはなかったので、写真は撮らなかった。

 

 どこかの建物から響いていたアラームを止める人もいない。

 

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 地図上ではこの辺りなのだけど。

 ここはキャンパス内なのか森なのかがわからなくなってくる。

 

 方向感覚が抜群の知り合いに電話を掛けてみる。

 仮に人が居たとしても、背中に弓の矢入れのような袋(三脚)を担いだ奇妙な人間に、人影のないキャンパスで話し掛けられたら私だったら警戒する。

 

 「円形の建物の前だよ」と、知り合いは指示する。

 しかし円形の建物などどこにも見当たらない。

 

 代わりにその場所に君臨していたのは法医学の建物であった。

 法医学というものは、ケースに依っては、かなり精神的に参るものであると思う。

 法医学の先生に一度、「僕の机の上にある写真は絶対に見ては行けないよ」、と警告されたことがある。

 「閲覧注意」とか書いてあると逆に興味が湧いてしまう人もいるかもしれないが、私は見ない。

 

 法医学の先生方は二階のテラス席に座って各々の所見などを交換したりするのであろうか。

 

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 というわけで、残念であったが、今回はあきらめて退散することにした。

 次回があるかもわからないが。

  

 人生は、いったん諦めて、再度出直しをしたほうが上手く行くこともある。

 

   

 さあ、明日、オフィスビルに入場するためのIDカードを探さなければ、どこに仕舞っちゃったかな。

 明日は誰が出勤しているのであろうか。

 最近、身体の寸法が多少(かなり)変化したので、新規の寸法に合うスーツが果たして箪笥の中にあるかどうかも気掛かりだ。

 

 来週は末娘が地方の大学に移る前の最後の週でもあった。

 出来るだけ長く一緒に過ごそうと思っていたけれど、彼女は、どうせストックホルムに居ても寝ているか、友人と一緒に出掛けているだけだから同じことだ。

 

 私もそろそろ子離れを覚悟しなければならない。

 そのためにも、オフィスに出勤して他人と交わるということは正論なのであろう。

 

    

写真はクリックすれば拡大が可能なことが最近になってわかりました。おそらく知らないために利用していない機能も沢山あり、皆様にご迷惑をしていたこともあるかもしれません。

 

写真に関してはまったくの初心者で、まだまだ練習段階でございますが、私の撮った写真で、もし参考資料等に使えそうなものがありましたら、人の写っていないものでなければどうぞご自由にお使いください。

 

 

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深緑の森の奥で見つけたインダストリアル・スタイル アルフレッド・ノーベル氏が遺したもの

 「是非、見せたいところがあるの」

 

 森を一緒に散歩した友人が言った。

 彼女は深緑の森の中をグングンと歩いて行き、私は彼女の後ろを追った。

 季節は夏の真っ盛り。

 

 そして彼女は赤い煉瓦の建物の前で立ち止まった。

 

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Winterviken

 「ここはアルフレッド・ノーベル氏の硫酸工場を改造したカフェなの」

 「ノーベル賞のアルフレッド・ノーベル氏?」

 

 

 私は早速、この土地の歴史を調べはじめた。

 

 1865年、ノーベル氏はこの森の奥にてストックホルム・ニトログリセリン株式会社を設立した。

 実は設立の前の年、町中でグリセリンを精製している時に大きな爆発事故を起こしていたのだ。そして不運な事に、その事故により21歳の弟を始め、その場にいた助手を失ってしまっていた。

 

 下の写真は1984年に事故の起きた現場付近の1910年の様子である。

 町中には見えないかもしれないが左後方に住宅地が見られる。

 

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Fotograf Salin, Kasper (1856-1919)Skapad 1910Objekt-ID Stockholms stadsmuseum Fotonummer F 3809、https://stockholmskallan.stockholm.se/post/16220

 

 それでも爆発媒体の実験を続ける意向を持っていたノーベル氏は、森と湖と岩に囲まれたこの土地なら仮に事故が起きても、被害は最小限に抑えられると予測した。

 彼は近隣地域の同意書を添えてこの土地を購入を申請した。

 

 この一帯はWinterviken(冬の湾)と呼ばれる。

 この土地には現在、レジャー施設、花に囲まれるカフェ、爆発実験に使用した爆風穴、ボートクラブ、その他にも多くの見どころがある。

 

 ストックホルムの南に住んでいる人たちにとっては有名なところであるらしいのであるが、あまり南には出掛ける機会のない私にとっては全てが新鮮であった。

  

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  ここは百年以上の前の工場を見事に改造してある。

 どこがオリジナルでどこが改造されているのかなどに関してはとても興味があるが、それに関する資料は未だに見つからない。

 

 最近、上の写真の左端に見えるような家具を売る店を頻繁に見掛ける。

 工業スタイル(インダストリアル・スタイル)と称される形状と材質である。

 すなわち工場で使用されているような素材を使ったものであり、まったく媚びがない。

  

  1950年代、1960年代をイメージさせるようなハンバーガーレストランなどにもこのタイプの家具が置かれていることが多い。インダストリアル・スタイルと一言で言ってもいろいろ形状があり、アメリカン・ヴィンテージと呼ばれるものもある。

 

 例えば以下の棚は、おそらく実際には古いものではないのであろうが古く見せるような技巧が駆使されている。

    

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 棚と言えば、アメリカ映画に出て来るような高校のロッカーのヴィンテージになると一基、十万円ぐらいにものぼる時もある。

 「昔、物置にあったあの机、椅子、ロッカー、箱、保存して置けば良かったなあ、今、売れば一財産出来たのに」、などと後悔する人もいる。

 

 この階段の手すりなどもむき出しの金属であるが、その中にもデザイン性がある。

 

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 こちらはこの工場の二階であるが、木の柱を、やはりむき出しの金属で固定している。

 木の柱に関しては、ログハウスのような山荘の温かみはないかもしれないが、とても雰囲気がある。右の木の割れ目が何となく気になってしまったりするのであるが。

 

 この下の空間では結婚式等が催されることがある。

 80人の収容が可能。

 

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 ちなみに私の現在のマンションの照明器具はほとんどがインダストリアル・スタイルである。私は懐古情緒に溢れるこのスタイルがに入っているのであるが、柔和なスタイルを好む人の中には首を傾げる人たちもいる。

 

 知り合いのピアニストの若い青年に居間の照明の写真を見せたところ「好きなスタイルではない」とまゆをひそめられた。

 人の趣向だけは変えることは出来ないし、自分の趣向をお仕着せするつもりもない。

 

 こちらの椅子に関しては、私は趣があると思うが、こちらも賛否両論であろう。

 私は、素材としては真鍮(しんちゅう)が好きなのでこのタイプは購入しない。

 以前、彫刻の美しいアンティークの木椅子を一脚1500円から5000円で購入したことがある。多くのアンティーク家具の価格は昨今、廉価で購入できる。

 インダストリアル・スタイルの椅子は上記よりも高額である。

 トレンドというものは価格を吊り上げるものらしい。

 

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 このテーブルと椅子はインダストリアルに属しているのか否か、微妙なところである。ガーデン家具のようにも見える。

 上からぶら下がっている照明はインダストリアルであろう。

 壁から掛かっているものは裸電球をむき出しにしてあるところから、やはりインダストリアルであると思う。

 

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 下のスタイルはよくわからないがガーデン家具とインダストリーのハイブリッドといいう感じであろうか。

 どちらにせよ座り心地は悪そうである。

 

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 二階のこの木目調のテーブルはアメリカン・ヴィンテージであると思うが照明はどちらとも言えない。

 本来ならこのようなテーブルが欲しかったのであるが、築三年の白壁のマンションには残念だがしっくりとは合わないと思いあきらめた。

 

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  「一メートルは離れましょう」という注意書きまで何となくインダストリアルである。

 

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  売り場近くに掛かるランプは全てインダストリアルであると思うが、売られているものは一般的なスウェーデンのコーヒー菓子である。

 

  こちらでもガラスのショーウィンドウに入っているケーキなども時々見掛けるが、ショーウィンドウはインダストリアルにはそぐわないのかもしれない。

  

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  前述のように、この数年、このインダストリアルとアメリカン・ヴィンテージスタイル等を店頭で見掛けることが多い。

 しかし、北欧においても全ての一般家庭のインテリアにこのスタイルをマッチさせることが可能とは言えない。

 例えば、中世に建てられた中古マンションなどは天井や壁にロココ調の装飾が施されていたりするのでこちらを、インダストリアルに改造するわけにはいかない。

 さらに、たとえばウェッジウッド等の上品な陶器は金属むき出しのテーブルには合わなそうな印象を受ける。

 

 果たして、このスタイルの家具を日本の一般家庭では流行らせることは出来るであろうか。一つ言えることは、落ち着いた和陶器はインダストリアルのテーブルの上においても不思議と映える。

   

 こちらの大宴会場(Stora Salen)。

 中央に淋し気に置かれた宴会場用テーブル。これはノーベル賞晩餐会のテーブルを模倣しているのであろう。

 この宴会場では500人の座客を収容できる(ノーベル賞晩餐会は1300人前後レベル)。

  

  かつて硫酸工場であった時代には、この宴会場にはニトログリセリンの形成に重要な成分である硫酸用の大きな鉛被覆チャンバーと濃縮器があった。

 

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 この後もいろいろと興味深いところを案内していただき、この日の散歩はとても実りの多いものになった。

 かつて硫酸の匂いが充満していたであろうこの工場が、インダストリアル・スタイルの大集成の空間として温存されていたこと知ることも出来た。

 

 しかし、この日一番美しく嬉しく感じられたものはなんであったのか。

 友人の笑顔だ。

  五分おきに立ち止まり写真を撮っていた私を、彼女は不平一つ言わずに笑顔でずっと待っていてくれた。

 

 

 アルフレッド・ノーベル氏。

 死の商人と呼ばれながらも、人類に貢献した人たちのために築いた巨大の富を賞与として分けあたえる遺言を残した。

 そしてこの森の奥には、他にも紹介させて頂きたいノーベル氏の遺物が数多くある。

 硫酸工場が一世紀以上もあとにトレンディーなカフェに衣替えすることになろうとは、彼には想像も付かなかったことに違いない。

 果たして彼には、このカフェに一緒に座って雑談を出来るような友人はいたのであろうか。

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 インテリアではありませんが北欧の外観を美しい紹介する動画を引用させて頂きたいと思います。

 

www.youtube.com

 

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肌 燦々と照る北欧の太陽の下で

 このまま終わってしまうかと思われた北欧の夏はあたかも蘇生したかのようである。

  

 燦々と太陽が照るこの季節には、半裸の男性があたりに氾濫しており、すでに景観の一部と成っている。住居に例えれば壁紙の如く、すなわち瞳には映っても目には入らなくなってしまう。

  

 しかし、つい凝視してしまう肌もある。

 それは鍛えられ光沢を放つ肌でもなく、剛毛に覆われたものでもない。

 

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  以前、知人にストックホルム刺青コンクールでボランティア(入場料サービスと刺青代金の割引)で通訳をやってくれる気はあるか、と打診された。

 向学のために、基本的に、高い場所以外にはどこへでも顔を出すようにしている。

 むろん引き受けさせていただいた。

 

 このコンクールには世界中から名の通った彫り師が大集合する。

 そして各ブースで飛び入り客に刺青を彫る。刺青のモチーフ、および価格は彫り師によって異なる。彫り師は老若男女、多国籍であったが、参加者の大半はおそらくスウェーデン人であった。

 

 私が担当させて頂いたのは日本人の若い男性の彫り師であった。

 そして私達の前にほぼ裸で横たわっていたのはスウェーデン人の若い女性であった。

 彫り師の中には多種の鮮やかな顔料を使用する人もいたが、その男性がその女性に刺していた顔料は派手なものではなく、黒色と濃緑であった。

 

 結局、その日、私が通訳した言葉は、

「この線、どうしますか?はっきりとした太い線にしますか、それとも影を付けますか?」のみである。他は必要なかった。

 

 言語は通じなくとも彫り師と彫られる人の間には言葉を介しない観念的な相互理解のようなものが存在しているように感じられた。

 

 刺青はアートと呼べるのであろうか?

 

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 「刺青競技の時間になりました!」

 会場で放送が流された。

 

 同競技は彫り師の技術を競うものではなく、自分の肌に入れた刺青のモチーフを競うものであった。会場は熱気でむせ返っていた。今年の表現で言えば三密である。

 

 我が刺青こそが一番優れている、と信じる人たちが次々と舞台に現れた。

 十人程はいたかとは思うが、印象に残ったのは三人だけである。

 

 一人目

 遠山の金さん如しの桜吹雪を彫った若く逞しい男性。

 桜吹雪は色合いも鮮やかで好感が持てたが、気になったのは腕の先端に彫られた地球儀。桜吹雪と地球儀では調和が悪い。

 

 二人目

 片脚に上品に小さく刺青を入れた、黒髪が美しい若いスウェーデン女性。刺青が印象に残ったわけではないが、数少ない女性参加者であったことと、露出度の多い水着で舞台に現れ、多くの好奇の目に晒されて不愉快ではないのだろうか、と面識の無い女性であったにかかわらず心配になったからである。

 

 三人目

 顔以外の身体全体に濃緑のヘナを流し込んだ、眼鏡を掛けた痩身で長身の男性。とても気の弱そうな表情を見せる人であったが、全身が濃緑になっているので蛇のように見えた。

 

 そしていざ審査員に依る順位が発表された。

 

 遠山の金さんは一位、女性も上位に入っていた。

 しかし、蛇の男性には何の栄光も与えられず、彼は舞台の隅の方で糸一つ纏わぬ姿で淋しそうに座っていた。他の参加者は水着等を身に着けていた。

 

 確かに蛇の男性の刺青は傍から見ても、違和感を与えるものであった。

 しかし、仮に彼が、このコンテストに勝ちたい一心で自らの身体で勝負をしたのであったのであったらと思ったら、彼のためにやるせない気持ちになってしまった。

 

  

 私が凝視してしまう上半身は、すなわち、奇妙な刺青のあるものだ。そして彼らに訊ねたい。

 

 例えば、

 

 「貴方のバラの花の刺青の横に彫ってある漢字は「電気計算機」という意味だって知ってる?」

 「彼女の名前を彫ってしまって、別れた時はどうするのそれ?」

 

 大概は大きなお世話なのだが気になってしまうものは仕方がない。

  

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 以前、社内で、とても優秀なプログラマーと知り合いになった。

 

 当時は六十歳ぐらいであったと思うが、やぶにらみの目が印象的で、若々しく、自信に満ち溢れているところが彼の存在感を特別なものにしていた。

 昼食を数回一緒にしているうちに、彼がオフィス職を始める前は船乗りであったことがわかった。私は若いプログラマーと話をするより彼の武勇伝を聞いている方が楽しめた。

 

 彼が会社を辞めるまえに一緒にこんな会話をした。

 

 「船乗りは寄港する港ごとに愛人がいるって本当の話?」

 と冗談で訊ねたら、

 

 「寄港するあらゆる港というわけには行かなかったけど、まあね。女のだんなに猟銃で撃たれそうになって窓から飛び降りたこともあったよ。あれだけ泥酔してよくあんな反射神経があったと思うよ。まったく若気の至りでいろいろとやったなあ」

 

 「随分冒険をして来たのね。それじゃあこんなクーラーの利いたオフィスでずっと机に座って居るなんて退屈でしょう。ところで船乗りって刺青があるってイメージがあるけど貴方にはあるの?」

 

 彼はつねにアイロンの掛かったシャツを清潔に着こなしていた。その半袖の下からは刺青は見えなかった。

 

 「あるよ。懇ろ(ねんごろ)になった女だけにしか見せないけどね」

 

 この会話を何故これほど鮮明に記憶しているのかは不可解でなのであるが、特別な人にだけに見せると言う刺青が船乗りらしい刺青だと感じられたのだ。

 私には見せて頂けなかったが。

 

 2020年、刺青を身体に入れている人は珍しくなくなった。そしておそらくいま、太陽の下で見られるほとんどのものはファッション刺青であると思う。

  上記の刺青コンクールの会場のように、ネールアートを施す感覚で数件のブースを物色してそのうちの一件に入る。あるいは数件のブースに立ち寄る。

 その結果、奇妙な漢字文字と龍とポケモン像が身体の要所要所に彫られるなどという結果にもなり得る。

  

 そのような人にはこう訊ねたくなる。

 「貴方が刺青を彫る理由は何なの?」

 

 しかし、そのように表面的に考えず、いろいろなモチーフを彫っている人の刺青は、あるいはその人の歴史絵巻なのではないか、と最近考えを多少改めてきた。

 

 例えば桜吹雪と地球儀を彫っていた男性は、地球儀を彫った時点では世界旅行に憧れていたのかもしれない。桜吹雪を彫った時点では…見当も付かないが。

 付き合っている女性の名前を彫っている人は、彫った時点ではおそらくその女性のことを一生愛し続けると信じていた。その情熱はそれで素晴らしい。

 

 そう考えると、一番最近のモチーフはどれであろう、一番古いモチーフはどれであろう、と凝視してしまうわけである。真近で肌を見れば、色の変色具合等でわかるときもある。

 すなわち、この人は現在、人生のどの位置にいるのであろうか、果たして満ちたりた人生なのであろうか、ということが他人事ながら気になってしまうので奇妙な刺青を凝視してしまう。

 

 

 社内の商品に関して時々、メールで相談をさせて頂く商品専門家がいる。物理的にお会いしたことがないのでどのような方か見当も付かなかった。

 眼鏡を掛けていて長身、痩身の方だとは他の社員からは伺っていた。

 仕事も丁寧で迅速であり、紳士である。

 

 先日、その男性とビデオ電話をする機会があった。

  自宅勤務が主流になっている昨今、彼も自宅で勤務をしていた。

 

 映像に映った彼は、湖畔の白塗りの美しい家のテラスに立っていた。他の方の描写通り、眼鏡を掛けていて長身、痩身で柔和な表情をした方であった。

 唯一、その描写に無かったものは、Tシャツを着た彼の半袖の下からニョロリと伸びている濃緑の蛇のようなモチーフの刺青であった。

 

 蛇のような濃緑の刺青?

 どこかで見覚えがある。

 

 「まさかね」

 

 

写真提供 Pixabay Nawal Escape、Rajesh Kori、LivyBo

 

雨に打たれて 旧刑務所前にて 

 窓の外はため息が出るほどの快晴、夏季休暇の最後の平日を飾るにはふさわしい。

 来週は多忙な月末締めで休暇明けを迎えなければならない。その緊張感のせいかはわからないが久しぶりに片頭痛が始まった。 

 

「今日は予定が無いから一緒に遊ぶ時間あるよ」

 昨日の朝、末娘が私にこう言った。本来なら親が子供に言う言葉である。

  ある時期から立場は完全に逆転していた。

 

 私はこちらに来てから、経済的に自立するために、起きている時間は全て勉強とバイトに費やしていた。その合間に「子供と遊ぶ」という時間的余裕は生み出すことが出来なかった。公園「デビュー」さえしたことがない。

 

 誰にでも一日は24時間しかない。

 その24時間をどのように配分するかという点においては葛藤の毎日であった。

 経済的自立を果たすための勉強とバイトは必要不可欠であった。

 しかし、娘達の幼少時代、少女時代、思春期はたったの一度しかない。

  

 経済的にも多少余裕が出来たため、ようやく子供達と遊べる時間的余裕が出来た時には既に遅しであった。

 長女と次女は既に巣を飛び立とうとしていた。

 そしてまもなく末娘も家を出て地方の大学に移籍してしまう。

 

 私は昨日、当初の予定を返上して末娘と遊ぶ時間を優先した。

 どこかに一緒に行きたいかと訊ねると旧刑務所のある島(Långholmen) に行きたいと言う。

  

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 私たちは自転車で一緒に、緩い勾配が長く続く(マラソンランナー殺しと呼ばれる)橋を渡った。

 

 旧刑務所は橋を渡り切ったところにある。

 刑務所の中には入らなかったが現在はホテル、カフェとして営業はしている。

 

 私は刑務所の前のベンチに座って、娘と普段できないような話でもしてみようと試みた。 しかし、いざ横に座ってみると共通の話題が見つからず、全く間が持たなかった。

 私たちはとても仲が良かった、と思っていたのは果たして幻想であったのか。

 

 あまりに白けていたので彼女はおもむろに電話を取り出し、誰かと長電話を始め、私は辺りの写真などを撮り始めた。

 

 実家の庭はジャングルと命名されるほど花に囲まれているため、私は多少、花と虫には辟易している。そのため、花の写真は滅多に撮らず、巧くもないが、あと数週間もしたらこの彩りも全て消失してしまうのだと思ったら自ずと画像に残して置きたくなってしまった。

  

 

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 どちらの方向を見てもひたすら花だらけの島である。

 1975年に最後の囚人が他の刑務所に移されてから、ここは夏の島として市民に愛される島になっている。敷地内には学校もある。

 

en.wikipedia.org

 

 長い橋から降りてきて最初に視界に入るものが特殊なボートクラブである。

 何が特殊なのかというと、ここでは木造船しか見掛けないのである。

 

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  船の材質としてはおおまかに木造船、強化プラスチック(FRP)船、アルミニウム船があるようであるが、木造船は通気を良くして腐ることを予防したり、割り目をこまめに修繕する必要があるらしい。

 運河の中にこれだけ木造船が集合している光景は圧巻である。

 

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  私は末娘に散歩を促した。その間も白けていたため、私はひらすら写真を撮っていた。

 

 「何でそんな綺麗じゃない場所の写真ばっかり撮ってるの?」

 娘は言う。

 「じゃあ、どこが綺麗なのか教えてくれる?」

 そう言ったら彼女は口を閉じた。

 

 十代半ばの頃、私も母親に向かって喧嘩腰であったことはあったのであろうか。

 いろいろと迷惑は掛けたが、喧嘩腰の態度を取った記憶はない。しかし、記憶というものは時には自分に都合の悪いことは歪曲している場合もある。

  

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  この島では家庭菜園のようなものが盛んであり、このような小さい小屋を借りて、栽培をしながらここでゆったりとした時間を過ごす人たちもいる。赤い小屋の近くではワインを堪能している女性達が居た。

 

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 ここで栽培されているものは色とりどりの花、野菜、果物などである。

 夥しい数である。

 

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 「どうしても引っ越すと決めたなら荷物運ぶの手伝うよ」

 と、オファーすると

 「いい。車持ってる友達に頼んであるから」

 と、躱される。

 

 彼女は念願の学部に合格したのだがそれは地方の大学であったのだ。

 ストックホルム市内の大学で合格した学部は第二希望の機械工学であるという。本人は数学が好きなので理系に進むことに関しては疑問は無かったようであるが、機械工学となるとかなり方向性が変わって来る。

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 上の写真を撮影している時に、通り掛かった女性に声を掛けられた。

 「何か用?」

 「別に。とても美しい光景なので撮ってます」

 と答えると、彼女はそれ以上何も言わず歩き続け、左に曲がった。目の前の家の住人であったようだ。

 

 「きわどい写真は沢山撮ってるけど、初めて咎められたね」

 と娘に言うと、

 「違うと思うよ。あの人、嬉しかったんだと思う。綺麗だから撮ってるっていう言葉を聞きたかったんだと思うよ」

 と言う。

 無口な末娘にしては珍しく長いセリフであった。

 

 どこからが雷の音が響いた。

 

 そのあと「咎めていた」「咎めてない」という不毛な口論をしたあと私は本論を切り出した。

 

 「一年目の単位だけを取ったら二年目からはストックホルムの大学の希望学部にも移籍できると思うよ。ちょっと調べてみてね」

 「何でそんなこと言うの?」

 「だって、ストックホルムに戻りたいでしょう?」

 「今、そんなこと言わないでよ。ずっとずっと考えて、ようやく行こうって覚悟したんだから!」

 

 娘は歯を食いしばり涙を流さないようにしていた。

 しかし、彼女の頬は水滴で濡れはじめた。

 

 「雨だ」

 彼女の頬を濡らしたの水滴は果たして雨であった。

 雲行きは怪しくなり、天気の良い日はビーチで日光浴をしている人で賑わうメーラレン湖も、憂鬱な色に変わっていた。

 

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 「急いで帰らなきゃね。家に帰る時に通らなくてはいけないあの長い橋ね、雨がひどくなるとブレーキを押してもすぐには止まれなくなるから怖いの」

 

 高所嫌いの私にとって、非常に高く長い橋の上で自転車のブレーキが利きにくくなるというのはかなりの震撼シナリオなのである。

 

 

 雷は近くにまで来ていた。

 私は言った。

 「橋のちょうど真ん中で雷、ひどくなると思うよ。どうする?橋渡るのちょっと待つ?」

 「待たない。だってブレーキ利かなくなるんでしょう」

  

 私達は、雨脚が強まる一方の中、橋を渡り始めた。

 上がり勾配の距離がかなりきついため、疲れている時は自転車から降りて歩くこともあるのだが雷も雨も強くなる一方であり、一刻も早く家に戻りたかったため必死に漕いだ。

 

 案の定、長い橋の中盤のあたりで雷はかなり威嚇的な音声を発し始めていた。

 娘はずぶ濡れになりながら目を細めて私の直後に付いて来ていた。

 

 「大丈夫?」

 「うん。ママは大丈夫?」

 

 なんとか橋を渡り切った時、私は非常に安堵した。

 土砂降りの雨は容赦なく私達のヘルメットを打ちつけてはいたが私は温かかった。強雨の中でも親を気遣う気持ちだけは喪失してはいなかった末娘を確認出来たからだ。

 

 次回、旧刑務所を訪れることがあるのならこの雨の日の事を思い出してしまうのであろう。

 

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 私がスウェーデンに引っ越しをした朝は八月であったが雨が降っており、空はどんよりとしていた。日本を出発するときはいつもそうだ。

 雨の中、最寄りの駅まで送ってくれたのは父母であった。父は運転しており、通常通り無表情であったが母は低くすすり泣いていた。

 

 私自身、これほどスウェーデンに長い間居つくことになるとは考えてもいなかった。新しい言語を習得するためにはなるべく若いうちに行った方が良いと考え、語学を習得するためにとりあえず二三年という軽い気持ちであったと思う。

 それが結局二十年近くも居ついてしまった。

 

 末娘も地方に移ってしまったら、その土地で就職をしてしまったり、その土地で人生を一緒に過ごす人を探して居ついてしまうかもしれない。

 最初のうちは二か月に一回会っていたとしてもそれが半年に一回、一年に一回という頻度になってしまっても不思議はない。

 

 子供が小さいうちは大変だ、早く自由な人生を取り戻したい、などという言葉は時々耳にする。

 

 しかし、

 

 もしも一日だけ時間を過去に戻しても良い日があったとしたら、私は子供達と公園で思う存分一緒に遊ぶ。

   

 

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北欧でリノベーション 「高級ホテルのようなバスルームに仕上げて下さい」

 「高級ホテルのようにバスルームを大理石で敷き詰めたいの」

  というと建築材料の小売店の店員は決まってこう答える。

 「あんた、それは危ないよ。濡れてる大理石の床がどれほど滑るか知ってるの?」

 

 「バスルームで走るつもりはありません。4平方メートルしかないので走りたくても走りません」 

 と、私は食い下がり大理石を大量に注文した。建築材料の店ではなく石の専門店からである。

  

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 こちらでは自分の住んでいるマンションの売却を考える時に、大抵の人はキッチンとバスルームをリノベーションしてから競売に出す。

 

 水回りを考慮しなくて良い部屋であれば、自分でペンキを塗る、壁紙を張り替える等の作業であるので業者に頼む必要もないのであるが、水回りとなると専門の人に任せた方が断然安全なのである。

 

 例を挙げると、自分で床暖房を敷いた素人が感電して亡くなった、自分で突貫工事をしたために水道管が破裂し多額の損害賠償を負うことになった、換気方法が基準に沿わぬため天井および見えないところがカビだらけになった等、笑い話では済まない。

  

 スウェーデンでバスルームのリノベーションをすることはかなり難儀である。

 ほんの一か月間のプロジェクトではあったが心労で足労と重労で痩せたかもしれない。

 心労ではなかったがストックホルムの、知っている限りの全てのタイル屋に足を運び、サンプルを買い集めたことは足労と重労であった。私はタイルよりも石に興味があったので、何枚もサンプルを買うとかなりの重さになった。

 

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 分譲マンションとはいえ、建物をいじる場合は、マンション委員会の許可を得なければならない。その申請を審議するための会議は多くて一か月に一回しか開かれない。そのうえ、必ずしも申請が許可されるとは限らない。

 

 そしてまずは最初の難関、リノベーションをしてくれる業者を探すのが一苦労なのである。外国人女性の私が、その業界にそうそうコネがあるわけでもないのでネットで探すしかない。ネットがあるだけでもありがたいが。

  

 次に、候補として選んだ業者が水回りの工事をする資格を持っているか調べる。

 それはKeramikrådetという機関のホームページでその会社が加盟しているか否かを調べる。同類の社名が多く、実際の社名と違ったりするため、一応、問い合わせして再確認する。

 

 そして何社かとアポを取って実際にバスルームを見てもらい見積もりを出してもらう。その際、下のパターンの業者はお断りした。

  

 連絡が付きにくい。

 見積もりが遅い。

 見積もりが明確ではない。

 予算を大幅に超えている。

 予算を超えていると言うと即座に大幅値引きをする。

 事務所が遠い。

 フィーリングが合わない。

 

 ようやく一社を選出し「おたくにお願いします」と連絡すると、

 

 「あんたのところは請け負いたくない」

 と、向こうから断られる始末。

 

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 しかし、これは実は驚くことでもないのである。

 

 私が以前住んでいたところはストックホルム市の中心であった。これが何を意味するかというと、工事の人にとっては駐車場を探すところが非常に難儀であり、さらに路上駐車でも駐車料金は掛かるため駐車料金が馬鹿にならないということなのである。

 以前、電気屋に来てもらった時「駐車場代が馬鹿高い」を反復されたので、私も多少いらついて「経費で落とせるはずでしょう」と応戦した。

 

 さらに、以前住んでいたところは建物内(大抵は共同洗濯室の近く)に客用のトイレが設備されていなかった。すなわち、工事の人たちにとってはトイレを取り外してある数週間、どこかのレストラン等で用を足さなければならない、という不便を意味していた。

 

 評判のよい業者に片っ端から拒絶されたあと、諦めかけていた矢先、かなり大手の業者から連絡が来た。

 

「あんたのメール、見落としていたよ。明日でも見に行く、いいかい?」

 と言う。

 

 あちらこちらに宣伝を出しているような大手で大きなマンション等も請け負っているところであった。

 再度拒絶されるか、予算を大幅に超えるかのどちらかであると、大きな期待もせず、次の日、彼らを待っていた。

 

 次の日現れたのは、タヌキおやじと細身で神経質そうな男性というイメージの二人組であった。販売担当のタヌキおやじの方はおもむろに巻き尺を取り出すとバスルームの寸法を測り始めた。

 

 「ホテルのように大理石でピカピカのバスルームにして下さることは技術的に可能ですか?」

 とわたしが訊ねると彼は

 「難しいね。何で、普通の白にしないんだ?」

 

 私はそれを聞いて多少不安になった。この人の頭にはとんでもない古臭いデザインしかないのでは、と猜疑的になった。

 

 「出来ないってことですか?」

 

 彼は数秒考えたあと言った。

 「出来ないこともないけどね。でもそれはあんたと僕がここで一緒に住むってことが条件になるけどね」

 

 私は彼のその一言でこの業者に決めた。

 

 他の業者の人間は、皆、ビジネスライクで融通が利きそうになかった。この人ならば多少、難しい事もやってくれそうだ、と直感した。

 果たして、その直感は珍しく命中した。

 トラブルがあると彼はすぐに駆け付けて来て、状況の許し得る限り最善な方法で解決し、さらにいろいろと割引をしてくれた。

 

 神経質そうなほうの男性の方は配管技術の正確さにおいてはかなり名声のある人らしく、1900年初頭築の建物の複雑な配管に関しても熟知しており、普通の配管技術者なら出来ないようなこともやってくれた。

 こちらの方は常に虫の居どころが悪そうであった。

 

 結果的には大理石は床には敷かなかった。滑りやすく危険であるからではない、大理石よりもさらに滑りやすい材料を使用したからだ。しかし大理石は壁に埋めた。

 以下の写真は以前のマンションのバスルームの床である。填め込んだのは疑似大理石の人工マテリアルである。大理石よりは高額であるため、大きい面積には使えない。

 

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 バスルームの床というのものは排水が出来るように排水溝に向けて緩い勾配をつけなければいけないものなのである。

 そのため私のバスルームのような狭い面積で、その勾配を作るためには私の買った大理石は脆弱かつ大きすぎた。

 

 

 洗面台等は全て異なるネットショップで注文した。

 日本と違い、こちらの配達時間は8時から17時までのいつか、というものである。

 配達は毎日のようにあったが、当時は自宅勤務というコンセプトもなかったので配達の人から連絡が来たら自転車を飛ばして家に戻った。

 とても重要な会議に出席していた時に突如連絡が来たときは会議を中座した。

 日本と違い、不在の時には再配達を按排するのが大変厄介なのだ。そして配達が遅れると取付工事も遅れてしまう。

 

 注文したものが代理店(スーパーマーケットの郵便コーナー)に配達されたときなどは、時間の制限は無かったが、代理店は近くではなかった。

 一度、デンマークから注文したものが届いているという通知が届いたので深慮もせずにハンドバッグ一つを持って代理店に出掛けた。

 

 代理店には便器を含むトイレ一式が届いていた。壁から吊るす方式のものを注文したため通常よりも設備が多かった。

  

 これには唖然とした。

 タクシーなど呼ぼうにも近すぎて乗車拒否をされると思い、しかたなく買い物カートを借りて数往復した。重いのでカートは真っすぐ進まない。

 

 実際にリノベーションを担ってくれたポーランド出身の若い青年たちはとても優秀であり、一人は英語も話せたので意志の疎通も楽であった。

 彼らは私が希望していた通りに仕上げてくれた。お礼として時々ケーキを焼いて一緒に雑談したことなどが寄与したためか、最後までしっかりと仕事をしてくれた。

 

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 さて仕上げは、上のサンプル写真のような雰囲気になった。

 私のバスルームはこれよりも小さく、窓もバスタブはない。

 彼らの提案の通り、壁には大理石と白いタイルを両方使うことにした。大理石だけだと暗い印象になってしまうからであるという。

 

 結局、そのセールスマンのタヌキおやじは私の希望を叶えてくれた。さて、私はその男と一緒に住むことになったのか。

 

 残念なことに、こだわりの多すぎる女性は面倒くさい、ということで奥さんのもとに逃げられてしまった。

 

 しかし私には(とても小さいが)ホテルのようなバスルームが残された。

  

 

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ストックホルムの美しい外観を紹介する動画を参考に引用させて頂きます。

 

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hokuomachikado.blogspot.com

 

 

写真提供 Gregory Butler, noh950, Kirkandmimmi, George Anastasopoulos

 

 

 

 

伊東園ホテル巡りにて熱海にひたる 

 日本に帰国した折には、私は家族を温泉ホテルに招待するように心掛けている。

 家族とは言っても、親と子供達、たいていはスウェーデンから客も数人連れてくるため、この宿泊費用が一介のサラリーマンにとっては結構半端ではない。

 

 食べ放題メニューが良い、飲み放題メニューが良い、和室が良い、腰が痛くなるからベッドの部屋にして欲しい、温泉を満喫したい、カラオケは必須、ピンポン台があれば尚良い。都心からの送迎バスがあれば尚便利等の希望を叶え、それでもって一人頭一万円程度で抑えたいとなると、選択肢はかなり限られてくる。

   

 さらに、私に関しては、仲居さんのいらっしゃるところは非常に神経を使う。

 

 布団を敷いて頂いたりすることが申し訳ないという点もあるが、心付けをいくら包んだら妥当であるかという点では五里霧中状態である。

 多すぎて受け取りを拒否されたこともあったし、あまり嬉しそうな表情をして下さらない時は少なすぎたのかな、と心配になることもある。

 また、旅館やホテルのクラスに依っても違うようである。

 一度、レセプションで心付けの相場は幾らであるかと訊ねてみたところ、サービス料に含まれているので必要はない、とのこと。これはレセプションという立場上そう答えているものか、厳格なルールであるものなのか、日本の旅館には泊る機会があまりないため、どのようにすることが常識に沿っているものかわからず非常に困っている。

 

 また、布団を片していただく際など、それが男性の仲居さんであったりすると、女性旅行者の布団を片すことなど嫌がっていらっしゃるのではないかと危惧してしまう。

 それが表情に憂いを含んだ美しい女性の仲居さんであったりすると、この方はどのような過去をお持ちなのであろうかと、これも気になり始めてしまう。

 松本清張氏の小説「けものみち」等の影響もあるかもしれないが。実際に、知合いの仲居さんの中では壮絶な過去をお持ちの方もいらっしゃった。

 

 寛ぐべき場所の温泉ホテルや旅館でこんなことが気になり始めてしまうと寛ぐどころではなくなってしまう。しかしこれは私の場合で、仲居さんがいらっしゃるほうが寛げるというかたもいらっしゃる。

 

 

 数年前に帰国した時、知合いに、 二食食べ放題で一人頭一泊一万円程度、仲居さんはいらっしゃらない温泉ホテルチェーンがあると教えられた。

 「食べ放題」という四文字には何故かこころ惹かれる。危険なものであることは十分承知しているのであるが。

 その温泉ホテルチェーンに自ずと興味が湧いた。

 そこで日本の友人を誘って泊まってみることにした。

 これは彼女にとっては結婚してから初めての、家族以外との旅行になったと記憶している。

 

 

 熱海館

 

 私達が泊ったのは静岡県熱海市のホテル熱海館であった。熱海の駅で降り、温泉饅頭の湯けむりの漂う平和通り(お土産品街)を降り切ったところにそのホテルはあった。

 

 お互い関東出身であるため、彼女の仕事の帰りに現地集合という手軽さであった。


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 外見は温泉ホテルというよりはビジネスホテルという雰囲気であったが、岩盤浴に温泉にと一通りのものはあった。私たちは岩盤浴も温泉も試してみた。

 暑いのは非常に苦手であるが、岩盤浴は身体には良い暑さであるように感じた。

 

 大きなカラオケ部屋もあり、私達二人はその部屋を独占していた。

 カラオケ装置の採点法に多少疑問は残るが、温泉で寛いだあとクーラーの利いた部屋で懐メロを唄う、というのは温泉ホテルの醍醐味であろう。

 この価格でこれだけの設備が揃っていれば、たとえまわりになんの娯楽施設が無い辺鄙な場所であったとしても、ホテル内で充分楽しめるのであろう。娯楽施設があったとしても地方によっては早く閉まってしまうところもある。

 

 食事に関してはその時々の状況、および厨房の顔ぶれなどで変わる。このホテルの食事は手の込んだ料理ではなかったが満腹にはなった。コスパは最高である。

 

 飲み放題に関しては、通常、生ビール、焼酎、サワー、日本酒、ワイン、 ウイスキー、 ハイボール、ソフトドリンクが提供されている。

 

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 仕事帰りにちょいと熱海で一泊。

 

 伊東園ホテルに限らず、熱海は東京、神奈川付近で働いていらっしゃる方にとっては手軽に現実逃避が出来る町である。東海道新幹線、東海道本線で簡単に出掛けられる。

 

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 私が日本に帰国するのは大抵六月なので、その時は往々にしてこのような空の色である。当時はブログを書く予定も無かったのであいにく良い写真がなくて残念であった。

 

 私たちはツインベッドの部屋を利用させて頂いた。五階の私達の部屋の窓から見えたのは隣の昭和風オフィスビルであった。

 

 友人との旅行とは面白いもので、熟知しているはずだと思いこんでいた友人の新しい一面が見えてきたりする。

 私たちは部屋のカーテンを閉めるか閉めないに関してコンセンサスに至ることが出来ず、結局、半分だけカーテンを開ける、という状態で就寝した。

 

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 上は、海岸の散歩道に突如として出現し、西洋人を驚愕させる銅像である。

 尾崎紅葉の未完成小説「金色夜叉」(こんじきやしや)の中で、寛一が、結婚の直前に彼を裏切ったお宮を熱海で蹴り飛ばすシーンである。

 

 海外旅行が現在ほど手軽でなかった時代、新婚旅行先としてのメッカであった熱海、最近はまた新婚旅行先としてリバウンドしていると聞く(コロナ以前)。

 廃墟ホテルのようなものが点在している熱海を見て衰退した町だと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、この町の歴史を知れば知るほど、この町の潜在的な可能性を再認識させられる。

 

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 人影のない砂浜にたたずんでいた少女/女性、とても不思議な雰囲気があったので思わず撮らせて頂いた。たった一人で、敷物も敷かずに直接、砂の上に座って居らっしゃる。日本女性であったのであろうか。

 

 寛一とお宮の下駄と和服という時代から赤いサマードレスを身に纏う時代まで、熱海市の変貌を感じさせる光景であった。

 

 

 アタミシーズンホテル

 

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 このホテルは家族で利用させて頂いた。

 歩いてもそれほどの距離ではないが、出来れば駅からの送迎バスをお勧めさせて頂きたい。急勾配な道が多かった。

 

 このホテルの第一印象は、伊東園ホテルらしくない、ということであった。比較的新しかったのかもしれない。私達の泊った和室もとても洗練されていた。洋室の方は大きくベッドが三台入っても閉塞感は無かった。建物自体は、泊ったことのある伊東園ホテルの中では比較的小規模であった。

 

 カラオケ室は最初に行った時は空いていたがそのうち同席となった。子供たちはここに数時間居たのでおそらく日本の歌をあまり知らない客にでも唄える曲が豊富であったのだと思う。

 

 食事に関しては、他のところよりは料理の種類は少なかったが、手の込んだ創作料理ということであった。

 

 個人的には、もっと砕けた庶民的な雰囲気と、種類の多い定番の食べ放題がより好まれたが、子供たちは、ホテルから貸していただいたピンクのパジャマと、広いベッドの部屋とその大きいテラスを大変気に入っていた。

 

 ほぼ最上階のベッドの部屋のテラスから眺めた景観。昭和レトロ、なのであろうか。

 

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 ウオミサキホテル

 

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 このホテルに関しては、私自身は泊らなかったが、子供達とその父親のために出資した。去年の夏の宿泊となったが、リノベーションが行われた直後の宿泊であったため、とってもフレッシュな印象を受けたという。

 

 この位置からは夜景が臨めたはずである。

 ライトアップされ、宝石を散りばめたような豪奢な熱海の夜景が。

 

   

 例によって長くなってしまったため、以下のホテルの体験談に関してはまた次回に綴らせて頂きます。 私にとって今まで一番印象に残ったのは白浜温泉の南国ホテルです。

 昭和そのもののホテルでありました。

  

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ストックホルム初のお寿司屋さんです。

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カミュの小説「ペスト」の舞台になった国、アルジェリアで暮らしていた頃

 ものごころがついた頃には、私は言葉も通じぬ国で寝起きをしていた。

 

 アルジェリアである。

 

 最近はカミュの小説「ペスト」のおかげでふたたびスポットライトを浴びている国である。

 

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 逆に言ってみれば、アルジェリア滞在以前に暮らしていた土地、能登半島と横浜の記憶が皆無なのである。

 アルジェリアの記憶が強烈すぎて、それ以前の記憶が心の奥底に姿を潜めているのかもしれない。

 

 私の中のアルジェリアの記憶もそのうち消失し、当時のことを知っている人も少なくなってくる日がやがて来ると思うので完全に消失するまえに、この場を借りて、歴史の一記録として書き留めさせていただくことをお許しいただきたい。

 

 カミュの「ペスト」が発表されてから三十年以上の年月が経った頃のことである。

 

 私は幼かったのでそれほどまで辛いとかきついと思うほどの知能も感受性もなかったもしれないが、それでも「もう外国やだ。早く日本帰りたい」、と泣いていた記憶はある。

 それほど外国が嫌いであったのに結局外国に戻った、とは人生とは皮肉なものである。

  

 まったく文化の違う国であったため、毎日が驚きの連続ではあった。

 

 

 海外の生活は母にとっては非常に苦痛であったようであった。

 

 母は、日本の片田舎で、花に囲まれた家でゆったりと花を見ていることを一番幸せと感じる人間である。

 箱入り娘であったため、一人ではいまだに横浜駅に行くことさえも覚束ない。

 そんな人間が幼い娘を二人連れて、外国語も話せないのに飛行機をいくつも乗り継いでアフリカ大陸まで父を頼って旅して行ったのであるから、相当に心細かったことに違いない。

 

 「駐在員妻」という言葉は一見華やかに聞こえるようかもしれない。

 しかし、その中には、積極的に自ら現地の人たちと交わって語学を習得しようとする人もいるが、外国生活に馴染めず、相談できる人も見つからず、ノイローゼ状態に陥るような人もいると聞く。

 さらに、狭い日本人社会の中で中傷されて孤立する例も往々にある。

 母は語学を容易に習得出来るタイプではなかったが、当時のアルジェリアにおける日本人社会、あるいは駐在外国人社会は比較的和気藹々としたもので、さいわいノイローゼに陥るようなことはなかった。

 彼女は日本語(能登弁)しか出来ないので、どのように外国人と会話を行っていたのかは今でも謎であるが、伝える意志さえあれば文法および語彙などはそれほど重要ではないということになるのであろうか。

   

 

 私たちは、現地人の姉妹に借りていた平屋の一軒家に住んでいたのであるが、そこの家の庭には可愛い二匹のうさぎが走り回っていた。

 白いうさぎと黒いうさぎであった。

 ある日、妹と庭で鬼ごっこをしていた時、洗濯用の干し竿に、洗濯物の代わりに肉の塊が干してあったものとぶつかりそうになった。二匹のうさぎの姿が見掛けられなくなったのも同じ頃であった。

 

 その平屋に関して、残っている記憶は、床が白っぽい石であったことと、お風呂をガスボンベのようなもので沸かしていたことである。

 ある日、夜中に父が私達を揺すり起こし、庭に出るように促した。

 ガスボンベからガスが漏れていたそうだ。

 発見がもう少し遅れていたらこの記事が世に出ることもなかったであろう。

 

 

 その他にもいろいろと苦い経験をした国ではあるが、アルジェリアに関しては美しい思い出も多くある。

 

 

  週末ごとには大声を上げながら台車を押している行商もいた。

「エスカルゴ、エスカルゴ」と大声で叫んでいた。カタツムリ料理である。

 エスカルゴ料理は、珍味ということなのであろう。

 カタツムリであるとは知らず、その原型を見なければ食べれないこともないかもしれないが。

 と、思ったがやはり無理だ。

 

 ある駐在員の家に行った時のことである。

 その夫婦は一軒家を借りていたのであるが、その家の外壁はカタツムリの集団に覆われていたことも記憶に残っている。これは思い違いではない。

 

 駐在員同士で一緒に近場に出掛けることもあり、地中海の岩場に座って新鮮なウニを食べていたこともある。それは偶然岩場に落ちていたものか、専門の人が採ってくれたものか、そんな記憶でさえ今では曖昧になっている。

 

 またある時は、サハラ砂漠を訪れた時、私は蜃気楼を見たのであるが、同行した人たちには見えなかったという。その記憶はそうとう明瞭である。

 

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 私は子供であったので蜃気楼という言葉も現象も知らなかったほどなのであるが、そこに居るはずのない一行が見えたのであるから。

 

 

 エンジニアというものは時には労働文化、生活習慣、宗教等のまったく異なる国に送られることもあり、現地労働者と如何に協力してプロジェクトを進めるかということはかなり難関になるのであろう。

 

 父は毎晩、疲労困憊で帰宅してきた。その心労で口にするタバコの量もかなり増えた。

 それでも父にとっては永年暮らしたアルジェリアは美しい追憶の国であった。

 日本で暮らしていた数年間も、そこでアルジェリアで購入したレコードを、意味もわからないのに拘わらず、目を細めながら一人で静かに聴いている時が多かった。

 

 二〇一三年一月、アルジェリアの油田で、大変遺憾な事であるが、多くのかたが亡くなられた。犠牲者の中には日本人駐在員のかたも含まれていた。

 

 その時、呆然とテレビ画面を見ていたらしい父の心中の瞳孔にそのニュースがどのように映っていたのかは、今となっては知る由もない。

 

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写真提供 Pixabay SophieLayla Thal、Jacqueline macou、Skeeze

パノラマ景観のタワマン 購入しなかったガマン 花火の丘

 いつ眺めても圧倒される奇妙な建物がある。

 

 青空を分割するアコーディオン、とも表現されるこの奇妙な建物は、島の繁華街に行く途中、また市民の湖畔公園を散歩をする時は、つねに目に入る。

 

 しかし、この建物が何であるのか、反対側には果たしてどんな世界が広がっているのかは最近まではまったく未知であった。

 

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 引っ越しをするために住むところを探していた際に、これが分譲マンションの「タワマン」であったことを始めて知った。

 

 タワマンと呼ぶには16階建てなど低すぎる、と思うかたもいらっしゃるかもしれないが、ストックホルムの住居用マンションは、16階以上であれば高層ビルの分類に入るのである。

 高さをある程度統一したこじんまりとしたストックホルムに、突如高層ビルが出現し、さらに「花火の丘」と呼ばれる高台にそびえているのであるから圧巻なのである。

 

 このマンションが建てられたのは1960年代の初頭で、当時としてはかなり高層、またモダンなものであったはずである。

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  花火の丘へは他にも上り方はあるはずであるが、とりあえず視界に入った階段を上ってみた。蛇でも出現しそうな雰囲気を醸し出していた。

 それほど長い階段ではなかったが、上っている最中にも全身を蚊に刺されているような錯覚を受けた。人通りもなかった。

 

 階段を上りきったところがこのタワマンの裾であった。

   

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 建物の足元で人様の住居を撮影していたので、怒った住人にバケツの汚水などを掛けられても文句は言えないかもしれない。

 しかし、私は単なる好奇心で人様の住居を仰いでいたわけではなく、高度成長期のロマンに想いを馳せていたのである。そんな想いはおそらく住民たちには理解は出来ないであろうが。

 

 二年前に住むところを探していた時には、多くの分譲マンションの公開見学を訪問した。

 公開見学とは、住居を売却しようとしている人が、週末などに住居を一般公開するものである。大抵の場合は、売り主が委託した不動産業者が案内人として入り口に立っている。

 

 

 その日に見学した物件は2階と12階にあった。

 2階の方は83平方メートル程度の2LDKで競売開始価格は6,500万円程度、素人仕上げには見えたが一応リノベーションは施されていた。

 

 12階の方は1LDKで、50平方メートル程度、価格は3000万円程度、こちらの方は、以前のテナントが、荷物だけをまとめて夜逃げをしたように思えるほど荒涼としていた。

 バスルームには古いシャワーキャビンが設置してあった。そのような物件にはお目見えしたことはかつてなかった。

 マンションの中には質に入っているようなものもあるが、一般の公開見学会において、このように荒廃しているマンションに遭遇した場合、一般的には以下のような理由が考えられる。

 

本来は賃貸マンションであったものが持ち主の意向で購入マンションとなり、借主は購入は出来なかったため/しなかったためそのマンションをそのまま放置して立ち去る。賃貸マンションの場合は購入マンションほど自在にリノベーションを行えない。

 

住人が亡くなった場合等。

  

  競売前の公開見学は通常は30分間に限られており、この場合もそうであったが、私はこのマンションをしばらく立ち去ることが出来なかった。

 

 その窓の外の風光明媚さに完全に魅せられていた。周りには何も障害物がないため、パノラマ景観が楽しめた。

 例に依って、「ここに机を置いてこの景観を眺めながら仕事を出来たらなんと優雅なこと」などと想像を逞しくした。

 

 時間切れになった。

 そして私はそのマンションに別れを告げた。

 二度とここに、公開見学に来ることはないであろう、と思った。その建物のマンションを購入することは出来なかったからである。

  

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 それほど不動産巡りをしていなかったころであれば、パノラマ景観が臨め、フィーリングの合ったマンションなどがあれば即座に買ってしまったかもしれない(競売に勝てたと仮定したら)。

 しかし、百件ほど見学した現在、「起こり得そうな住居のシナリオ」が自ずと見えて来てしまう。夢も希望もないものであるが。

 

 ここには参考として、私がこれを購入しなかった理由をざっと述べさせていただきたい。花火の丘のアパートの景観は素晴らしいものであるし、普通に住んでいらっしゃるかたたちも多いので、購入を希望されるかたに水を差そうとしているわけでは決してない。あくまで一意見である。

 

 分譲マンション委員会が、建物の立つ土地を所有していない。

 -すなわち、土地所有者が土地の借用費用を値上げした場合、各住人の管理維持費も上がる可能性がある。

 

 エレベーターが小さい。

 -家具を運ぶときに不自由がある。

 

 スウェーデンの六十年代の建物は防音性に劣ると一般的に言われている。

 

 ブロンマ空港から発着する飛行機がほぼ上空を頻繁に通過している。

 

 注、上記は2018年の状況でありましたが、2019年からは土地を所有を開始。

 

 スウェーデンに移住してから最初に購入したマンションは1900年代初頭築のものであった。その当時の不動産価格市場は、現在ほど不可能なものではなかった。

 ヨーロッパの古城のようなスタイルに一目惚れし、即座に購入してしまったのであるが、住んでいる数年の間に数件のトラブルに見舞われた。

 

 そのため、最近は不動産を見るときはどうしても批判的にならざるを得ない。

   

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 このマンションのどこかに当時の首相Tage Erlanderが住んでいたことに因んで、この建物はErlanderhusetとも称される。当時としてはとても話題に上った建物であると想像出来る。

 

 六十年代の住宅史には興味深いものが多い。

 この直後、スウェーデンにおいては百万プログラムと称される大型住宅プロジェクトが高度成長と共に実施された。

 これに関しては後日、紹介させて頂きたい。

  

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 このマンションに関して一般論を述べたつもりであるが、かりに悪い印象を持たれてしまったのならば申し訳ないので、最後に巻き返し。

 

  水底まで透き通ったこのメーラレン湖をすぐ足元に臨めるという醍醐味のためだけにでも、このタワマンに住む価値はある。

 

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この記事で言及したタワマンの動画を引用させて頂きます。

 

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海外不動産とインダストリアル・スタイルと

 以前、このリンクにあった記事は照明の記事でしたが、今回は内容を以下のように更新させて頂きました。

  

    スウェーデン不動産購入における競売状況のブログ記事

 スウェーデン不動産における問題の一面のブログ記事

 スウェーデンマンション相場等、および周辺の観光情報の動画(4K)

 海外インダストリアルスタイルの家具が堪能できるカフェの写真と動画(HD, 4K)

 

 

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 一番下にスウェーデンのマンション状況がよくわかる動画、および北欧インテリアの美しいカフェの動画を引用させていただきました。

 

 海外の住宅、不動産関係に関しては今後も、生活に基づいた記事を、参考数値を織り込んで配信させていただく所存ですのでよろしくお願いいたします。

 

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忘れがたい橋の下の海外ロケ、疑似ニューヨーク

 昨日の晩は無性に確認したいことができたため、居ても立ってもいられず、ふだんは行かない場所を訪れることにした。

 その場所は暗く淋しいところに位置しているため、冬の夜などに訪られると多少緊張されるかもしれない。

 

 橋の下の無法地帯のように感じられる空間である。

 橋自体は、中央駅のあるVasastanから住居のあるKungsholmen島をつなぐ橋であるため頻繁に通っているが、古い階段から橋の下に降りていくことはストックホルムに引っ越して来てからは三回目であった。

 

  もう十年以上も前のことになる。

  

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  ストックホルムが厳寒に包まれたある日、私はこの[無法地帯]で、凍えついた小さい次女の手を引いて、それまでは面識の無かった日本人の方の手につかまり、かなり年配の日本人男性の前を歩いていた。 

 

 

 「こんな怖い所やだよ。ディズニーランドに行きたいよ」

 と言うのが次女のセリフであった。あいにく、私と、夫役の人にはセリフはなかった。主役は私達の後ろを歩いていた年配の日本人男性(義父役)であった。

 

 すなわち、それは海外ロケの一シーンであったのだ。

 

 

 この時のロケは、グローバルな語学学校のコマーシャルであったと記憶する。

 世界のコマーシャルコンクールへ出展するための撮影であったと思う。詳細は聞かされていない。

 舞台はニューヨークのはずであったが、何故、ストックホルムで撮影したのか理由も定かでない。アドリブとはいえ、ロスアンジェルスにあるディズニーランドにも言及している。

 すべてがハチャメチャに思えたが、あまりに辻褄を合わせすぎると何も制作出来なくなってしまうのであろう。

 このロケの大掛かりであったところは、ニューヨークから十数人の俳優をわざわざ連れてきたところである。そして、主役の義父役もアメリカ在住の日系人であった。

 

 あらすじはこうである。

  

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  私達、おのぼり日本人家族はニューヨークに旅行に来たが途中で迷ってしまい、何故か橋の下の無法地帯に入りこんでしまう。

 そこでたむろしていた若い不良グループのリーダーが私達に近付き、いちゃもんをつけてきたか、金を無心した、という流れであった。

 その動画はいただいていないため、彼が正確にはなんと言ったかは失念したが、

「こんなところをうろついていないでチキンラーメンでも食ってろ!」、と言うようなセリフであったと記憶する。

 

 しかし、そのいちゃもんを受け、私達夫婦役が恐れおののいているところに救世主が出現する。

 その救世主は年配の義父であった。

 義父は私達を庇うように押しのけ先頭に出て、いちゃもんをつけてきたリーダーと真っ向から対抗する。

 どのように対抗したかというと、罵り言葉をふんだんに混ぜた流暢な英語で彼らの行為を批判するというものであった。

 

 英語などわからない日本人か中国人旅行者が迷い込んできたとたかを括っていたリーダーは数秒、呆然とする。

 無法地帯に迷い込んでしまった東洋人家族、あわや身ぐるみ剥がされるか、袋叩きにされるか、という緊張の中、事態は予測しない方向に。

  

 そのリーダーとそのグループが呆然としたのも束の間、突如としてブレークダンスを始めるのだ。彼らは実はニューヨークで活躍しているプロのダンサー達であった。スパイク・リーの映画にも時々出演すると言っていた。

 皆、足並みが美しく揃い圧巻であった。

 

 出演者にはもう一人(一匹)いた。

 ショービジネス用に鍛えられたネズミであった。

 何かの小道具で煙を出したところからネズミがチョロチョロと走り出て来る。まさに無法地帯の雰囲気を醸し出すためには効果抜群である。

 ショービジネス世界の小道具は半端ではない。現在ではコンピューター技術で代替できてしまう部分も多いのであろうがやはり本物とは違うのではないか、と思いたい。

 

 厳寒の中、私達は何度もやり直しをさせられた。

 冬という設定ではなかったため、私達は手袋をはめることを許されず、幼い次女は休憩の際に、撮影スタッフにかじかんだ手を摩っていただいていた。

 

 何故、何度もやり直しをさせられたのか。

   

 義父役がセリフを忘れまくっていたためである。長旅でお疲れだったのかもしれない。

 ロケ等で非常に困ることは、自分の演じるところはOKとなっても相手方にNGが出てしまうと撮影が永久に終わらないことだ。NGが多くなってくると本人はさらに硬直してしまい、NGもさらに多くなってしまうのである。

 この義父役の場合もその例に然り。そこでダンサーのリーダー役が義父役の正面でセリフを先に小声で言い、義父役がそれを反復するという方法を採った。

 このコマーシャル、果たしてコンクールでの位置づけはどうなったのか、それも知らされていない。

 

 

 非常に長時間におよび、身体の芯まで冷え切り、疲労困憊したロケであったがそれだけにやりがいもあり、愉快で印象にも残っている。

 

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 スウェーデンに引っ越して来てから、フルタイムの職に就けるまで、私は(合法的に)出来ることは出来るだけやって日銭を稼いでいた。

 

 奇妙に聞こえるかもしれないが、ショービジネスの仕事は即金に繋がったので、私は積極的にその中で仕事を探して応募したり、一度出演したところからのコネで仕事をいただいていた。

 しかしそんな仕事が毎日あるわけでもなく、オーディションでも落選し続けていたため、当時はド貧であったが、それはそれで変化があって意義深い時期であった。

 

 現在でもオファーをいただけばいそいそと出掛けては行くが、フルタイムの仕事もあるため比較的時間の短い楽なものを選んでいる。

 しかし、楽な仕事は疲労困憊するほど打ち込めるロケほど印象には残らない。

 

 

 昨晩は、その思い出の場所がまだ温存されているのか確認したかったのである。

 その場所はあった。落書きも残っていた。

 

 しかし柵が設けられ施錠されていた。

 

 犯罪者のたまり場にもなりそうな場所なので施錠された方が安全なのではあろう。

 

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 ストックホルムを昼間に訪問される機会があったら、是非この橋の下を覗かれていただきたい。

 洗練されたストックホルムでこのような場所を見つけることは容易ではない。

 

 そして、この空間が疑似ニューヨークになっていた厳寒の冬の日が存在したことを想像していただけたら幸いである。 

 

en.wikipedia.org

 

 写真が多いスウェーデン語版

sv.wikipedia.org

 

そして無煙タバコになった(スカンジナビア・スヌース)

 私には商売好きの叔父が居る。

 現在は退職して、公園などで油絵などを夫婦で嗜み始め、一見は好々爺になっている。

 しかし、若い時は大変血の気が多い人であった。私の顔さえ見れば、「撫子ちゃん、なんかいい商売ない?いい商売?」、と身を乗り出して来た。

 

 何故、私なのか?

 箱入り娘で私よりもさらに世間ずれしていない母には、商売などはとんでもないものであるので話にはならず、生真面目で冗談一つ発さないエンジニアの亡き父は、商売人というコンセプトを嫌っていたため、こちらとはさらに話にならないからであった。

 

 関東に住む親類同士では会う機会が多く、時々は私の旬のボーイフレンドなども親戚会合に参加させてもらったりした。

 叔父は妙に感が鋭いところがあり、私が連れて行った男性達を、頼んでもいないのに、毎回分析して下さった。

 「撫子ちゃん、あの男は駄目だなあ。事業では成功しないよ」

 どんな男性を親戚会合に連れて行っても評価は同じ、しかも恐ろしいことにそれは毎回当たっていた。

 それならば「成功しそうな男性」とやらを叔父に紹介してもらいたかったところであるが。

 しかし、そういう叔父に関しても、一観光会社の重役としては活躍していたという認識はあるが、羽振りの良い商売を立ち上げたという記憶はない。

 

 それはともかく、「いい商売ない?」、と高校生の私に言われても、当時は学生で起業しているような人も少なく、世間ずれもしていない私に思いつくようなものは限られていた。多少は世間ずれしている今でも、現在のところ、特にいい商売は思いつかない。

 そのため、「いい商売」を提案するのは、つねに叔父の方のみであった。

   

 

 最初に叔父が持ってきた商案は、イタリアの芸術調家具を日本に輸入すると言うものであった。私はパンフレットをもらい、美しい家具を眺めながら漠然と想像を膨らました。

 しかし、叔父は提案を翻した。

 「駄目だ。友人が輸入を始めたけど、在庫ばかり増えてしまって大変らしい、場所も食うし」

 

 その次は、人件費の安かった東南アジアで、ウェディングドレスをオーダーメードする、というものであった。

 しかし、これも然り。

 「駄目だ。サイズとか細部の直しが多くて採算が合わないらしい」

 

 

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 その次は、彼は私に仕事を斡旋してくれた。

 

 東南アジアで香辛料の買い付けをする、と言う仕事であった。英語も中国語も駆使出来る、さらに東南アジア旅行も出来る。

 願ってもいないオファーであった。

 しかし、今度は私の方から断った。

 「男性の社長と二人きりで東南アジアを周る」、という点がどうしても引っ掛かってしまったのである。

 断ったことは今でも多少後悔している。あるいは、非常に後悔しているかもしれない。どんな料理でも香辛料で埋め尽くす私にとっては、香辛料の買い付けは打ってつけの職であったはずである。

 

 

 そして、四度目の正直か、今度は私が北欧に移住してからのことである。

 

 「撫子ちゃん、北欧の嗅ぎタバコってあるでしょ、煙の出ないやつ。あれあれ!あれはいけるよ、これからの日本では」

 

 私は叔父に依頼されて、いくつかこちらで人気のあるものを、サンプルとして買って帰った。

 「駄目だ。知り合いにも試してもらったんだけどね、ちょっと、味が日本人向けじゃないんだな。また何かいいものがあったら教えてよ」

 

 と、この提案も実は結ばなかった。

 

 

 しかし、私は、ちょうどこの頃、偶然、北欧の無煙タバコ/嗅ぎタバコ(スヌース)を販売する以下の会社のホームページの日本語版を手伝わせていただいていた。

 

 https://www.swedishmatch.com/Our-business/smokefree/

 

 スヌースに関してはWikipediaの簡略文がわかりやすくまとめてある。

 

スカンジナビアスヌース(Scandinavian snus)

 

上唇と歯茎の間に挿んで使用し、唾を吐く必要のない湿った無煙たばこである。

「湿った粉末(Loose snus)」と「ポーション(Portion snus)」のいずれかで販売されており、ベルガモット、シトラス、ジュニパーベリー、ハーブ花などの味で少し風味付けされている。

(下記Wikipediaより引用)

 
ja.wikipedia.org

      

 最初のうちは、仕事として、淡々と英語版のホームページを翻訳していた。

 しかし、日本在住の担当の方と頻繁に打ち合わせを行っているうちに、無煙タバコが日本に普及したら、喫煙家にとっても嫌煙家にとっても都合が良いことがあるのではないか、と思い始めた。

 そして私は、日本におけるスヌースの導入に乗り気になっていた。

  

 何故なら、

 

 嫌煙家の人にとっては、嗅ぎタバコを嗜んでいる人が隣りに居ても、煙が出ないため気にならない。

 

 ニコチン依存症の人は、煙を出すタバコを吸わなくとも、強いニコチンを感じられる。

 

 寝タバコに依る火災の危険がない、等々。

 

 去年の夏からは、スウェーデンにおいては公共の場における喫煙は全面的に禁止となった。室内の喫煙においてはかなり前から禁煙になっている。

 そのため、日本に帰国したおりに、居酒屋に寄る時は、毎回カルチャーショックを受けていた。

 

 

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 スヌースにはどのような品揃えがあるかは下のサイトで紹介されている。

 

 アフィリエイト等はやっていないのでただのリンクです。英語版のページでは生年月日を記入しなければいけないため、スウェーデン語のページを参照させて頂いております。単なる北欧情報です。
www.swedishmatch.se

 

  例えば、下の一例を見るとラズベリー味、トロピカル・コラダ味等、味に工夫を凝らした製品も紹介されている。他にも味に工夫がされている商品は多くある。

 30回分で500円ぐらいであろう。

 

www.swedishmatch.se

 

 私も一二度、比較的弱いポーションのものを試してみた。

 スヌースの味に関して正確な翻訳をするためには自分で味を知る必要があると思ったからである。

 小袋を口の中に入れて、エキスが神経まで浸透した数秒後には、天井が垂直の位置に移動していた。

 

 日本在住の担当者と私は、一年ぐらいホームページの日本語版を続けていたであろうか。しかし、結局、その企画も打ち切りになった。

 現在の状況はわからないが、当時の日本社会はスヌース導入において、まだ時が熟していなかったのかもしれない。

 

 その後、この会社ともスヌースともまったく関連が無くなり、一昨日までスヌースの存在さえ忘れていたほどであった。

 

 「そこは地の果てアルジェリア」、で有名なカスバの女の歌詞を耳にしたため、突然思い出した所以である。

 

 私の父はヘビースモーカーであった。

 

 長年、アルジェリアで命を張りながらストレスの多い仕事をしていたことにも起因するかもしれない。

 父は、私達に煙を掛けないようにと、いつもどこかに隠れて煙草を吸っていた。 

 もしも、父に無煙タバコを勧めていたら彼の人生は多少、楽なものになっていたのであろうか、とふたたび不毛な想像をしてしまう。

 

  

ストックホルム初の寿司屋の動画を紹介させて頂きたいと思います。

www.youtube.com

 

 

写真提供 Pixabay, 4924546、Lynn Greyling

 

 

ストックホルムの空はこんなに碧いのに 

 今朝、読売新聞を開いたら、このニュースが突如、視界に入り込んで来た。

 

 ここでは、スウェーデンの対コロナの失策例として私の湖畔が引き合いに出されている。

 

 これを読んで嘆いてよいものか、憤ってよいものか、高笑いをするべきなのかまったくわからない。

 

www.yomiuri.co.jp

 

 これでは「湖畔にたたずむ」、というタイトルに語弊があるように感じられるのではないであろうか。

 

 しかし語弊ではない。

 このような現象が発生するのは夏季の一時である。

 

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 この「北の緩い国」では、夏日と呼ばれる日はほんの数日間しかない。こちらの人は天気予報を頻繁に見ている。

 太陽が顔を出し、気温が暑い日になると、あたかも蟻のようにあちらこちらの穴からうじゃうじゃと半裸の老若男女が集まって来る。

 数日間しかない夏日を逃してしまったら、あるいは不発の夏に当たってしまったら瞬く間に夏が終わり、落ち葉散る秋に突入してしまう。

 新調した水着などは二三回しか着られないかもしれない。次の年には体型が変わっているかもしれないので、水着の方も着納めになってしまう可能性もある。

 

 

 だからと言って距離を置かなくても良いというわけではない。

 友人がこの湖畔の正面に住んでいるが、その密接ぶりに彼は文字通り、怒り狂っている。

 

 私にしても、冬の間には湖畔を温存し、ようやく夏日になったと途端、郊外からやってきた若者たちに我が物顔に占領されている。

 正直に言えば、多少、不条理にも感じられる。

 

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 考えてみれば、三か月後に、世界がパンデミック一色に染まるなどとは、去年の大晦日には想像も出来なかった。

 

 噂話と言うものは、常に会社のお茶会から広がるもので、最初のうちは、誰かが咳やくしゃみをしようものなら「コロナ」と誰かが冗談で言っていた。それが鼻に付いてきた頃、それは冗談ではなくなった。 

 人々は「コロナ」と言うかわりに自宅療養を促した。

 

 

 スウェーデンにも死者が出はじめた時は、お茶会では、パンデミックの影響を一番受けているのは富裕層であると噂されていた。

 ヨーロッパにおけるパンデミックの勃発点は北イタリアであった。

 すなわち、北イタリアにスキー旅行に行けるような金銭的余裕があるのは富裕層であったからだ。

 

 同僚の一人はちょうどその週にイタリア・ミラノに行く予定であった。

 しかし、出発の二日前に虫の知らせを受けたのか旅行をキャンセルした。キャンセルの理由はパンデミックではなかった。

 旅行をキャンセルしなかった彼の友人は、イタリアからの帰国後二週間の自宅内軟禁を強いられた。

 

 イタリア・ミラノから出張して来たエキスパートなどと握手をためらった人達もいた。彼らから、イタリア式の抱擁接吻の挨拶を受け、青ざめていたスウェーデン人もいた。 

 

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  その直後に会社から、「コンピュータを毎日持ち帰るように」という通達があった。二、三日は持ち帰りながら通勤していたが、そのうち出勤しなくても良くなった。 

 

 それから会社に行ったのは二回だけである。新しい携帯電話を取りに行くときと古い携帯電話を返す時だ。

 

 三月の末にはスペインのコスタ・デル・ソルに滞在していた次女を、急遽、帰国させた。彼女はスーツケースに入らないものは捨て、契約の残っていたAirBNBを引き継ぐ人を探し、ほとんど戒厳令下のスペインから無事に帰って来た。

 

 そのあたりから、長女の海外出張は全て中止になった。

 

 まもなくアンデシュ・テグネル氏という人物が彗星のように現れ、その一挙一動を世界中から追われる人物になった。

 彼に対しては狂信的な人間もいれば、その反対もいる。

 

 最初は、遠隔勤務に対して抵抗のあった同僚達も、今では、多少の不都合はあるにしろ、それを常識と受け止めている。

 彼らに、物理的にふたたび会えるのはおそらく早くて来年である。

 

  この間、私が医者に行ったのは二回である。

 通常は、担当になる医者と握手をするのが通常であるが、握手をする慣習の国で握手をしないことは非常にぎこちない。

 

 この国で亡くなった方の数は夥しい。病院の敷地で鉄のコンテイナー等を見掛けると、暫時死体安置所かと想像してしまうことがあったが、工事用機材の保管場所であった。

 知り合いが亡くなったという事は、現在の段階ではない。残念であるが、知り合いの知り合いの知り合い程度では亡くなった人はいる。

 しかし、今後はどうなるかわからない。

 

 知り合いの何人かは免疫テストを受けに行った。

 その後、結果をイライラと心待ちにしていたが、結果は抗体無しであり、失望していた。

 

 買い物に行くと、買い物のレジで距離を開けて並んでいる人もいれば、すぐ真後ろに並んでいる人もいる。

 アルコール、使い捨て手袋なども一時期置いてあったが、クレジットカードで支払いをする時は手袋をはめていたらコードが押せないので結局、外すことになる。

 試みが素晴らしいものは多いが、感染を完全に防御することは難しい。

 

 最近は、マスクをしている人もチラホラと見掛けるようになって来た。

 

 

 

 ミラノからの来客から抱擁されることを恐れていたスウェーデン人であるが、いまや、あたかも立場は逆転してしまったようである。

 「私、スウェーデンから来ました」、とでも言ったら門前払いか、塩でも掛けられるのであろうか。

 

 

 パンデミック政策に関しては、どこの国の政策が成功で、どこが失敗であったか、などというニュアンスのニュースは多い。

 「勝者も敗者もないよ。みんな敗者だ」、と皆を諭すような賢者もいる。

 

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 今日のストックホルムの空には、絵に描いたような浮き雲が奔放に流されていた。

 

 悩み事など皆目無さそうな碧い空と較べ、地上は何と暗く見えることか。

 ミシュランマン雲が地上に覆い被さっているからであろうか。

 

 

 末娘が、「来月、家から出て自立する」と、今さっき打ち明けて来た。

 晴天の霹靂である。大学に通う四年間は一緒に暮らしていけるものだと漠然と信じていた。

 私は、前兆も無く独立を余儀なくされた。

 

 

 私達の人生は、つねに浮き雲のように見当の付かない方向に流されてゆく。

 

 

 美しいストックホルムの動画を紹介させて頂きたいと思います。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

子供の時に憧れていた職業と現実

 友人から一件の携帯メッセージが届いた。ふだんに増して絵文字が多い。

 

 「アトミック・スウィングのストリーミング配信ライブに参加出来ることになったの!ラッキー!」

 

 その後、そのストリーミング配信ライブというもののリンクを添付して来た。

 

 何やら、咀嚼するのに時間が掛る語彙が並んでいた。

 アトミック?スウィング?ストリーミング配信ライブに参加?

 

 私はWikipediaでアトミック・スウィングという語彙を検索してみた。

 見つかった。日本語でも見つかった。

 90年代に全盛期を迎えたグループらしい。三回ほど来日し、コンサートを開いていたこともあるらしい。

   

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 彼女は通常はあまり感情を表にしない。

 表わすべき感情と全霊をベースに注ぎ込んでいるようにも感じられる。しかし、ベースを弾いている時も、彼女は大抵は無表情である。一心不乱に弾いている。

 その彼女が今は歓喜している。夥しい絵文字の数だ。

 経緯はまだわからないが、アトミック・スウィングのストリーミング配信というものにベーシストとして仲間入りをしたそうだ。

 

 

 ふと考えた。

 

 私は、職業において、ここ数年、彼女ほど歓喜したことが果たしてあったであろうか。

 

 プログラミング職を続けていれば当分、飢えることはないであろう。

 しかし、私はベストからは程遠い。世の中には、片手でコードを流麗に書けるような人がぞろぞろといらっしゃる。

 そして、おそらくこれは私の天職ではない。何故なら、のめり込むほどプログラミングに夢中であるわけでもなく、コードを書いていて歓喜した、という経験もない。

 プログラミングは言語なので語学の勉強が好きな人は伸びる、などとは頻繁に耳にするが、これに関しては正直、首を傾げている。

 

  

 子供の頃は漫画家になりたかった。

 

 母は大反対したが、結局、母を拝み倒して漫画通信講座を受講させてもらった。

 母が反対した理由は、競争率の高い漫画業界で成功するのはほんの一握りだけであり、売れない漫画家は路頭に迷う、というような理由であった。

 今では、その時の母の心情も理解出来るが、10歳の子供が漫画家になりたいと言ったところで大反対するような大袈裟なことでもなかったような気もするが。

 

 

 やがて、年月が経つにつれて、漫画家になりたかったことなどは思い出すことさえ難しくなってきたほど、追憶の奥に押し込められていた。

 私のような方は他にもいらっしゃるのではないだろうか。

 

 

 ある日、ストックホルムに引っ越して来てまもなくの頃、日本の元同僚から思いがけず連絡が来た。

 漫画家として独立した、と言う。

   

 「撫子さん、私の漫画のシナリオを描いてくれる時間ある?」

 

 彼女は、開口二番、このように切り出した。彼女と一緒の会社で働いた時に、「以前は漫画家になりたかった」、とボソッと漏らしたことがあったかもしれない。

 彼女は、私の、昔の夢に少しでも近づけるように助力をしようとしてくれたのかもしれない。

 すでに漫画家になろうという情熱は完全に冷めきっていたが、シナリオを書かせていただくという企画には心が揺れた。

 

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 せっかく、いただいたチャンスなので、シナリオを書き始めてみた。

 しかし、難易度は非常に高かった。

 

 彼女の選んだ漫画の分野は、同性愛者間のSMであった。

 それは男性同士の話でもあった。同性愛、異性愛にかかわらず男性の恋愛感情はいまだによく把握できていない。また、後者に関しても蘊蓄が全くなかった。

 

 彼女の描く男性はいずれも個性的で、職業も、国籍も様々で面白かった。そのような漫画にシナリオを考えることはさぞかしやりがいがあることであったことかもしれない。

  しかし、私は、どうしてもその分野に感情移入をすることが出来ず、結局、あきらめた。それからは漫画の世界にはまったく縁がない。今後もおそらくない。

  

 彼女の本来書きたかったものがSMであったという認識はない。

 しかし彼女は、漫画家として比較的、デビューしやすい分野を敢えて選んだ。

 欲しいものを手にするために特殊な手段を選んだ彼女の機転と勇気は尊敬に値する。一度、名を上げたあとであれば分野を変更することも比較的容易かもしれない。

 

 

 私は、大人になってからは何事においても石橋を叩いて渡って来た。

 そして、石橋を一本渡るつどに夢を捨ててきた。

 職を選ぶ際も、自分が何をやりたいかよりも、近い将来、生き残りやすい職は何であろう、と言う点に重点を置いてきた。

 どのような選職をするにも正攻法を採択し、ゲリラ戦術等を駆使したことはない。

   

 そしてそれはおそらく防御型の私にとっては正解で、お陰様で今では、毎月一回、同じ金額の給料が振り込まれている。贅沢は出来ないが、当分は餓死の心配もない。

 

 

 漫画家になった友人は漫画が売れなければ収入にはならない。何の保障もない。

 しかし、自分でストーリーを考え、美しく描いた漫画が売れた時の感動はひとしおではないであろう。 

 

 ベーシストの友人もまた然り、ふだん無表情の彼女をあれほど歓喜させたこのチャンス。

 私は、彼女が日頃から楽器の訓練を怠らなかったことを知っている。彼女の、胃の痛くなるほどの努力がようやく実を結んだ。これを足掛かりにして、子供の時から渇望していたものを勝ち取って欲しい。

 

 

 一日の終わりに、今日は何かを達成したであろうか、と天井の白い壁を見つめながら自問することがある。

 それは何でも良い。

 ブログの記事を一つ書きあげた(書くのが遅いので一記事を書くのに非常に時間が掛る)、分厚い本を一冊読破した、掃除をしたなど、それをしたことにより、無為に一日を過ごしてしまったという後悔を回避出来るものであれば何でも良い。

 

 

 しかし、仕事面に関してはどうであろう。

 出勤(ログイン)してから、頻繁に客からの電話に答え、同僚とチャット会議をし、その他の時間は、黙々とコードを書き、気が付いたら退勤(ログアウト)の時間になっている。

 そして太陽がふたたび昇ると、同じような一日を繰り返す。

 

 銀行勤務で高給取りの知り合いが数年前、銀行を辞職し、看護学校へ通い始めた。その間は貯金の食いつぶしである。その後、無事卒業して、今は病院で活躍している。

 彼女の収入は激減したうえに看護師の仕事は激務である。特にパンデミックのこの時期は、銀行勤務の方がそれほど負担にならなかったはずである。

 それでも彼女は、現在の方が、銀行勤務の時よりは幸せだと言っている。

 彼女の人生にとって意義のあることをしていると感じられるからだと説いている。

 

 仕事をするのは生活のためであり仕方がないから、本当に生きるのは17時から、などと言っている人もいるが、職場で過ごす時間は起きている時間内の大半である。

 その間を生きていないのであれば、人生は随分と短くなってしまう。

 

 

 防御型の私は、看護師に転職した彼女のように今さら職業を変える勇気などない。

 それならば、現在居る場所でやり甲斐を見つける他は道はない。

 プログラミングの世界も他の学問と同様、奥深く幅が広い。また変化の激しい世界でもある。

 ベストにはなれないからと諦めずに探求し続けてゆけば、きっといつかは、この世界でも自分に最適な分野が見つかるであろう。

 

 あるいは見つからないかもしれないが、探求し続けている過程でも人間は成長しているのだと思う。

 

 

  

 

 アトミック・スウィングのストリーミング配信の資料

私は全く関知しておりませんが、お好きな方がいらっしゃったら参考までに。

www.dramatix.tv

 

 写真提供 Pixabay   Simone Ph, Pexels 

 

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